宮川~外宮界隈 施設・商店
臥龍梅
旧御薗村新開の菅原神社の前に臥龍梅があります。
『勢陽五鈴遺響』の新開の項に祐善庵の記述があります。そこには、老梅樹が庭中にある。「勢陽雑記」に新開の梅は横九間ほど這っているようにみえる名木である。花は二十種類くらいで、花の盛りには通常とは違う色の花が咲き、早咲きや遅咲きのものがある。
さらに『祐善庵老梅記』が引用されています。以下、要約して記載します。
菅原道真が左遷される際、自身の潔白を示すため側近であった今村刑部師親に愛する梅を託し神宮に代参をさせた。師親が疲れて眠った時の夢の中に白髪の老人が現れ「梅は河原水神の社と塩壺の社の間に植えなさい」とのお告げがあった。師親は現地に赴き、地元の農夫に場所を聞き梅の管理を依頼した。農夫は子供が梅の木に触れることを恐れ垣根を設置し、大切に育てた。数年後、農夫が梅の手入れをしている途中木の根元で居眠りをすると、衣冠の公卿が現れ梅の木の管理に感謝し、自分は菅原道真だと名乗って去って行った。農夫は恐れ入って梅の傍に小社を建立した。その後神木として繁茂したが、数百年を経ると農夫の遺志を継ぐ者もいなくなり、辺りは草木が茂り社も朽ち果てた。
光厳天皇(次の年号から考えると正しくは後光厳天皇か?)の康安から貞治(1361年~1388年)の頃に祐善という風雅の禅僧が春になるごとにこの地に来て、梅を賞愛し、詩を作り和歌を詠んだ。応安元(1368)年には小庵を作った。神界の里は古来安楽城、または新開村と言った。
古記に武内大臣の末裔が新たに開いた土地であるため気長足姫尊を産土神とした。河神(原の誤植か?)水神社と塩壺の御社との間なので、新開村と名付け神界といった。おそらく、あらきの時を転じて新開としたのであろう。これは盛英の家蔵日記にある。
東向きに一尺五寸の道真卿の像がある。翠の簾帷が掛けてある。祐善が安置したものと信勝日記にある。
一説に昔神像と伝えられたいつの時代から存在しか分からない四五寸の木造が仏前の横にあった。これは昔の老父が社内に安置したものであるが、長年の雨露で朽ちたため仏壇に入れた。これは家蔵著聞録南勢秘記梅の巻によって記載した。
祐善庵は小院で庭に数百年を経る老梅の樹がある。龍蛇が臥している様子である。その幹は一株で枝は数十本に別れて土の中に入っている。また地上に?して八九間に及ぶ。春には紅白の花が咲き、四方に馥郁とした香りが漂う。所謂摩耶鶯宿八幡の三種類を接ぎ分けた。
現在の臥龍梅の花は紅白の八重で、一つの花に多くのめしべを持つため身を多く結ぶ珍しい品種だそうです。
左:御薗村新開臥龍梅 中:現在の菅原神社遠景 右:現在の菅原神社 (現在の写真は令和4年8月14日sadanai撮影)
現在の菅原神鳥居左柱の碑文である「村中安全」、同右の「明治37年11月建之」は絵葉書と同じです。しかし神社の社殿が異なることや、鳥居と社殿・臥龍梅の位置関係が違いますので、社殿は絵葉書と別の場所に建て替えられたと考えられます。
〔参考文献〕
現地案内板
『御薗村村誌』 平成元年5月 p.569
安岡親毅 『勢陽五鈴遺響』 昭和53年2月 三重県郷土資料刊行会 p.261
伊勢商工会議所 『改訂新版 検定お伊勢さん公式テキストブック』 平成28年11月 伊勢文化舎 p.180
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